されどピンクに罪はなし。




宇野さんが提唱した《ダサピンク》という言葉を初めて見たとき、あー、なるほど、とおもった。
常々、なーんでこれをこんなピンクにしちゃってるんだろなぁとか、なんで女性向けっていうとピンクっぽいのしか出ないんだろう、という謎が一気に氷解した気がしたのだ。
ただわたしには、本気で本人の確固たる意思で
「ピンクだいすき!」
な友人・知人がいたものだから、こういう『ピンクの大盤振る舞い』には需要があるのだろう、と普通に納得もしていた。
それと、わたしの根底にある “少女趣味” (ピンクのもの、ひらひら・フリフリなもの、お花模様・水玉模様は、わたしには似合わないけど、そのものを見るのはすき)な部分も手伝って、“女の子はピンク” という概念は、あながちはずれでもない、という位置にあった。

だが、それを『よく知りもしないひとたちに「どうせ」の意で以って企画されるのは業腹だ』というのはとてもよくわかる。
これまでわたしは、自身の嗜好は「少数派だからな」とどこか諦めており、欲しい『モノ』のにすきな色柄がないときは、購入そのものを断念するか、ぎりぎり妥協できる色のものを買っていたのであるが、それが「どうせ」という意思の所為だったかも、とおもうと腹立たしいやら悔しいやら、になるのだ。
それはちょっと昔、まだスマファンだった頃、番組観覧募集に年齢制限がかけられてたことや、木村が某ブランドバッグのイメージキャラになったことを知った時の感覚に、とても似ている。
「あーそーですか、わたしは顧客として求められていないのですね」
てやつ。
こちら側の意見・意思をまったく無視されている、という悲しさ、である。

それはつまり。
ピンクのものを出すな、というんじゃなく、ピンクと一緒にたとえば黒系・青系も出してくれたっていいじゃない、なのである。
いや、なんならもっとかっこいいピンクのものだったら、買うよ! でさえ、ある。
ピンクのとなりに、黒い線いっぽん、引いてくれたりするだけで違うんだから。
そういう “気遣い” らしきものがなく「どうせ」が見え見えなのは「いい加減にしてよ(呆)」というのが《ダサピンク現象》に対する女性陣の本音で、それは至極単純な
「選択肢を用意してほしい」
に尽きるのではないか、とおもうのであった。


でもって現在、わたしの身のまわりにある「ピンクのもの」を探してみたら、コレ(↓)くらいしかなかった。
どうでもいい報告だけど。

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同じ道を歩きたくない。


「独裁者3人」
とあったら、あなたはどの顔を思い浮かべるだろうか。


原爆の日の前日放送、というのも「妙」だとおもいながら、見た。
映像のほとんどがモノクロで、しかもノイズだらけなのではるか昔のことのように感じるがなに、まだ70年ちょいしか経っていない「つい最近」のドイツ・イタリア・ソ連(現ロシア)でのことであるのだ。
くわえて、この3国が辿った道を21世紀のいままた、世界各国で同じように歩んでいるようにおもえてゾッとした。

特に印象に残ったのがムッソリーニが「独裁者」でいられる理由を問われて語ったという
大衆は強い男を求める。女のように。
的な言葉。
独裁者は、斃されたのち独裁だったために独りでその批難を浴びるが、その独裁者をまつりあげるのはいつだって “大衆” だ。
番組内でも
「民衆は熱狂的に支持した」
というナレーションが何度繰り返されたことか。

「支持した」
と過去形で語られているだけならいいが
「支持されています」
現在進行形で評される国の為政者を、いま、何人も見ている気がする。

わたしも「男」はひ弱よりは強いほうがいいとおもうが、だがその「強さ」は、自身の意に反するものの声を聞かず、切り捨てるようなものではないし、財力を盾に相手を脅したり、武器をちらつかせてるくせに相手には武器を捨てろと言い募るようなものでもない。
そして「女」としては、あいつが襲ってきそうだから先にやっつけちゃってよ、などと「男」を煽るような真似はしたくない。
なにより、過去と同じ道を、歩きたくない。
「あやまちは 繰り返しませぬから」
広島に刻まれたこの言葉は、けっして広島だけのことではない。

この雲を世界のどこの空にも立ち昇らせることなど、二度としたくない。



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暮れなずむ都会が。
夕焼けの翌日は晴れだよ、と教わったような気がするのですが、明日に限ってはその伝承は当たらないってことよね。
ちくしょー、ずっとアホのように暑く晴れてたのに、なんでだよーーー!
泣いてやるーー!! ˚‧º·(˚ ˃̣̣̥⌓˂̣̣̥ )‧º·˚(。´Д⊂)



あのね、ジョンダリ君(?)、いま居るあたりでもっかい回転しないかい?そんで回転したはずみでパーッと消えちゃったりしてみないかい?
そうすれば西のほうの、こないだの豪雨でたいへんな地区も助かるし、非常に珍しい動きをした台風てことで、歴史に名を残せるよ? 
どうだい? 考えてみないかい?
頼むよ、東向きに検討してみてくれたまえ。


ほんと、どーにかならんもんかのぅ。

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Sweets good will.
すぐ行くと混んでるだろうとおもって、今日、仕事の帰りに足を延ばしてみたんだけど、やっぱりシュークリームは売り切れてました。
(てか、夏場は17時までしかテイクアウトできないらしい、そりゃ売り切れるわ)
ちなみにカウンターには今日までの募金総額が出ていて、50,000を超えてました。
10日に始まって、1個につき50円だから・・・・・すごいことです。

来春は広島遠征かなー。

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平成の後ろ姿。
ネットニュースの速報でこの一報を目にしたとき、からだの芯の部分にちかいところが「ざわざわ」した。
でも理由はわからなかった。
なぜこのニュースに、こんなに動揺するのか。
今もわからないが、もしかしたら『7人』という人数なのかもしれない。
この教団が殺した人の数はもっと多いのに、いちどに『7人』執行された、ことに少ながらずわたしは恐怖に近い感覚を覚えたようだ。

いちいち断り書きをするのも妙だが、私は別に強固な【死刑反対派】ではない。
かといってもろ手をあげる【賛成派】でもない、という玉虫色の日和見ゾーンをうろうろしている実に日本人らしい日本人なのだが、『7人いっぺんに』の部分が、なぜかわたしの感覚をざわつかせたのだ。


《地下鉄サリン事件》については、わたしもその日のことを忘れまいと、2005年には『1995年3月20日を風化させないために書いておく。』というエントリも書いている。
それだけ世間に与えた衝撃は大きかった。
そして結局「なぜこんな事件を起こしたのか」の真相は明かされないまま、彼らは死んだ。

彼らが起こした事件の、これまで報道された部分だけをつなげると一部「絶対的存在を盲目的に信仰し、かつその威力に支配され、異論も唱えられず非道に手を染めた信者たち」という構図が見える。
教団を、教祖を、自身たちの居場所を守るために、言葉を言い換え、理論をすり替え、凶行を凶行とおもわないようにして “その作業” に臨んだ―。

なんだか似たような見解を最近も書いた気がする。
腐ってる組織、てのはみな同じ道を辿るものなのだろうか。

今日、刑が執行された元信者たちのほかに、あと6人の死刑確定受刑者がいる。
たぶんこの6人にも遠からず刑の執行は為されるのだろうが、それでも事件が終わったわけではないし、きっと「終わり」は来ない。
でも、事件を企てた者と実行した者たちはこの世から消える。消えていく。
なんともいえない消化不良にも似た「ざわざわ」。
根拠を説明できない、腑に落ちない感覚。

これはなかなか折り合いがつけられない。






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寝ている場合じゃない。
「電車は寝るものだよ!」
などとうそぶいてる身からしたらこんな恐ろしい事件はない。
ただ座ってたらいきなり切りつけられる−かもしれない、とおもったら、くつろぐこともできやしない。

それにしても以前から疑問におもっているのだが、男性に多いこういう「鬱憤晴らし」の無差別攻撃・破壊衝動は、なぜ他者に向けられるのだろう。なぜ自身を傷つけずに、他者を襲うのだろう。
また、こういう大きな事件にならなくとも、自身の虫の居所が悪いことを他人を利用して「なんとかする」やつらが多いことにもウンザリしている。
ここのところ何度も掘り起こしているが、すれ違いざまにわたしに向かって「ブス!」と悪態ついたおっさんも、間違いなくそのクチだとおもう。
事前に何か気に入らないことがあってむしゃくしゃしていて、そのときたまたまわたしがそこに通りかかったから、鬱憤をぶつけてきたのだ(私の反撃にあってびっくりしてたからすっきりできたとはおもえないが)。
だって正常な大人は、いくらブスが真実だからって、見ず知らずのひとに面と向かって指摘しないでしょうよ。
だからわたしは「言葉の暴力」で襲われたわけで、刃物じゃないだけマシだった、ということなのだが、なぜアカの他人のわたしをターゲットにしたのか、ずっと疑問だったし、今でもその心理は、ほんとうに解らない。

この、他者で鬱憤を晴らすことに関しては10年近く前にもわたしはこんなこと書いているのだが、よのなかはちっとも変わっていない。どころか「できそこなった “王様” 」が増殖してウヨウヨしているように感じる。
あな恐ろしや。

ところで今週末、路線は違えど新幹線に乗るので、ほんとに今ビビってる。
同じ車両のひとを100%信用していいのか、また、信用されているのか。
とても怖い。
そしてこんな疑心暗鬼なギスギスした状態でたいすきな新幹線に乗らないとならないなんて、悔しいやら悲しいやら。
胸糞悪い事件である。

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いつかの日の私。

今の職場にずっと秀樹のファンだという人が居る(Sさんとする)。

なのでグリーンホール相模大野はどうだとか、武道館はこうだとか、妙なところで話が弾む。

「北村さんも誰かのファンなの?」

と一度訊かれたが、テヘペロで誤魔化して、カミングアウトはしていない(でもプニ招き猫のマスコットとかでばれてるかもしれない)。



そんなSさんだから、ちょうど昼休みに飛び込んできた秀樹の訃報には激しく動揺した。

「うそ、ヤだ、なんで? なんで?」

今にも泣きそうな顔で、ネットニュースを漁って情報を手繰り寄せている。

ひたすら

「なんで? どうして?」

そう繰り返しながら。



その姿に、わたしはわたしのいつか来る日を見た。

「なんで? どうして?」

「イヤだ、嘘だ」

顔面蒼白で狼狽するわたしは、そのあとどうするのだろう。



考えたくない。

想像もしたくない。



でも、今日のSさんは将来のわたしだ。


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7年目。
「まだ」7年、だとおもう。
無情にも時間は過ぎていくが「まだ」だと。
去年は春と秋に福島に行けた。
今年も年内に東北のどこかへ、行きたい。
それしかできないけれど。

今夜のスカイツリーは天の人々に『花』を届けるため、10分ごとに5種の彩りで輝いている。





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あの焼け野原から立ち上がったエネルギー。


この地図で赤くならずにすんだところに居住地を定めて30年が経とうとしています。
屋移りする前のアパートの大家さんは、焼けずに済んだこの区域から見えた上野駅のことを、毎年この日にわたしに話していました。

その焼けなかった地に建つツリーが、亡くなった方々への鎮魂の祈りをこめて、静かに白く佇んでいます。



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態度とスタイル。



実はこの競技(スロープスタイル)を観るのがすきだ。
前回のソチ大会の時、漫然とテレビで観ていたのだが次第に
「なにこれ、おもしろい」
すっかり夢中になってしまったのだった。
なので今回は楽しみにしていた(実施日が土曜だったのはありがたかった!)。

結果、日本の若いふたりの選手は残念だったけど、競技そのものはやっぱりおもしろかった。
しかも今回のコース、かなり難易度高そうで、通常の大会では上位に名を連ねる(らしい←実況の受け売りだから)選手たちも、1回目の滑りでは転倒や着地ミスからのスピード不足によるコースアウト連発。
それにハラハラしっぱなし、てのも観戦する甲斐があるってものだった。


ところで。
スノーボードといえば思いかえされるのはバンクーバー大会の時の「腰パン騒動」。
わたしも当時は「彼」を「みっともない」とおもった側だったし、いまでも「腰パン」スタイルはきらいだ。男のパンツの一部なんて見たかないから。
なのに今大会もそのスタイルで滑ってる選手も少なくなく(でも大半は防寒対策で腰を覆っていた)、パンツのゴムが見えちゃったりしていた。
でも、なぜだろう。
8年前よりは嫌悪感がかなり薄れていた。
わたし自身が年取って丸くなったせいもあるかもしれないが、やっぱり競技の認知度が高くなったことと、選手たちの態度が当時の「彼」とはまったく違う(ようにふるまえる)から、というのもあるのではないかとおもう。

上に貼りつけた記事のインタビューを読んでもわかるように国武選手の話し方はとても「大人」だ。
「言い訳になるから言いたくない。実力です」
なんて、逆にいい歳こいた大人でこんなに潔いこと言えるひとがどんだけ居るだろうか? てなくらいだ。
そして国武選手の競技に臨んだスタイルは、いわゆる「一般的なスノボファッション」なので、全体的に「ゆるい」し、惜しくも8位だった大久保選手に至っては妙な三つ編みみたいな飾りを付けてて
「なんで?」
だったけども、「態度」はとてもきちんとしていた。

この「きちんと」という部分が、実はとてもたいせつなのではないか、とバンクーバーから8年経って、改めて感じた。
「スタイル」はスノボ世界の、ゆるい・着崩し・だらしないファッションでも「態度」がきちんとしてれば、多くの年配者は、やかましく責めたてたりしないのではないか、と。
そりゃ眉をひそめることもあるだろうけど、8年前の「彼」に対してしたような大激怒は、しないとおもう。
わたしだっても、スノボ選手だけじゃなくスケボ選手たちのインタビュー映像などを見るうちに、たとえスタイルが「チャラ」くても、受け答えが「きちんと」していたことが記憶として積み重なり、ひいては今回の観戦中に、以前ほど「腰パン」に対する嫌悪感が薄れていたことに気づいたくらいだから。
やはり「きちんと」した態度、というのは大事なのだ。

ということを、若いひとには伝えたいとおもった。


しかしスノボ(とスケボ)の技の名前の難解さはフィギュアスケートに慣れてる身からするともう少しわかりやすくしてほしい、とおもう。
「こーくすくりゅーてんえーてぃー」
っぽいことばっかり連呼されても「?」だらけだ。
(そういうのを全部勉強して理解して実況してるアナウンサーはとてもえらい)


※バンクーバー大会時の「腰パン騒動」がわからない人は、ぐーぐる先生に訊いてください。

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Text:©2004 瀬戸際日記Neo.
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