1995年3月20日を風化させないために書いておく。
その日も普通の朝だった。
花粉症も絶好調(泣)で、マスクをしないでは外出できない、春の一日の始まりだった。
前年の年末に私はいまの職場に転職したばかりで、新橋に向かって都営地下鉄浅草線に乗っていた。
時間は8:30のすこし前だった思う。
新橋のひとつ手前――東銀座駅で停車したとき、車内アナウンスが入った。
「日比谷線内で爆発物が発見されたため、只今日比谷線は運転を見合わせております」
車内は一瞬、騒然となったが、駅構内の方がもっと騒然としていた。
日比谷線に乗れない人々がコンコースに溢れ、駅員さんたちは慌ただしく走っていた。
警官の姿は見えなかった。
私はこちらも避難したりするのか、それともこのままでいいのかどうか不安で次のアナウンスを待ったが、特に何の指示もなかった。
そのうち地下鉄は普通に発車した。
(たいしたことなかったみたい)
そう思った。

新橋駅に到着しても、特に異様な雰囲気は感じなかった。
日比谷線の運転見合わせを駅員さんが伝えているだけで、大きな混乱が起きている様子では、無かった。
しかし会社に到着した途端
「北村さん、無事だったの!」
既に出社していた会社の人たちに口々に言われた。
皆の顔がこわばっていて
「そんな大騒ぎしなくても大丈夫でしたよ」
私がうろたえながら応じると
「だって爆弾が爆発したって!」
とか
「駅が火事になったんでしょ!」
などと言う。
会社で地下鉄を使っているのは私の他にふたりくらいで、あとは皆JR利用者だったので噂が大袈裟に伝わったのだと思った。
「ほんとにたいしたことなさそうでしたよ。浅草線は動いてましたし」
私の認識は、本当にその程度だった。

ところが、である。
私より後に出社してくる人たちが持ってきた情報は、ぜんぜん“たいしたことなさそう”では無くなっていた。
「救急車やパトカーが凄い」や
「地下鉄、全部止まったみたい」や
「あちこちの地下鉄の駅で事件が起きたみたい」
と、どんどん事が大きくなっていた。

そのうち電話が鳴りだし、それの大半が私宛の安否確認だった(当時は私だけでなく、そんなに携帯電話が普及していなかった)。
親や友人達が、私が地下鉄利用者なのを覚えていて電話をかけてきてくれたのだ。
そこからも
「人が大勢犠牲になったらしい」やら
「ゲリラみたい」
という情報が伝わってきた。

いったい、何が起きたのか――?

社内に唯一テレビがあるのは社長室で、その日の朝は特別に社長室に皆で入ってニュースを見た。
そこには、現在ではもう何度も見た、築地駅の“あの様子”が映っていた。
何台もの救急車と消防車とパトカー。
倒れている人々。
野次馬。
ニュースの中では
「正体不明の毒性のガス」
のような言葉が出てきたと思う。
一緒にニュースを見ていたなかの誰かが
「松本の、アレじゃないの?」
と言った。
「……サリン……だっけ?」
誰かが応じた。


その日は一日、この事件のことで社内はおろか、都内全体が緊張に包まれていたと思う。
仕事の電話をしていてもお互いの会社の人間の安否を確認したり、外回りの営業さんも外出を控えたり、ニュースで新しい情報が出ると社長がわざわざ報せに来たりと、落ち着かなかったと思う。


帰宅するときも地下鉄に乗ったのだが(運行していた)、とても緊張しながら乗ったのを覚えている。
いつもなら座って眠ってしまうのだが、そんな場合ではないと気を張っていた。
それは自宅に帰っても続いていて、まったく落ち着けなかった。
親や友人は何度も電話してくるし、ニュースで状況を知れば知るほど、自分が浅草線を使っていたから被害に遭わずにすんだだけという、危険と隣り合わせの現実が怖かった。


その日から都内の駅の様子が一変した。
ゴミ箱は撤去された。網棚に残された新聞紙は素早く持ち出された。車内では不審物や不審者の通報を促すアナウンスが繰り返されるようになり、おかけで乗客たちは床に落ちているモノや車内の匂いに過敏に反応するようになった。
実際に何件かの騒動も起きた。


この事件によって、日本人の“生活するうえでの警戒意識”に確実な変化がもたらされた。
“安全神話”の崩壊を、身をもって実感させられたと思う。

【普通に生活していても犯罪には巻き込まれる】

この覚悟を、持つのと持たないのとでは、かなり違う。
私は、この「地下鉄サリン事件」の実被害者ではないが、大きな括りでの被害者だと思っている。
それは私だけでなく、日本人全員にいえることなのだが、そうとは思っていない人々の方が多そうなのが実情だ。
なので、この日の私の記憶を忘却の彼方へ追いやらないために、実際の被害者ではないけれど、事件の隣に居合わせた私の一日のことを書き留めておこうと思い、記しておくことにした。
時事刻々刻々 comments(1) trackbacks(0)
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当時、地下鉄利用者で有楽町線と東西線を乗り継いで茅場町まで通っていた。私自身は出社時間が事件発生時間より1時間以上も早かったから、至って普通の朝だった。
会社についていつも社食で始業時間少し前までお茶するのだが、時間が経つに連れ、なかなかみんなが来ないので「電車が人身事故かなにかでとまったか?」位にしか思っていなかった。ところが……
母から電話があった。
「あんた!大丈夫!!」「んっ?なにが?」
この時点で私は事件のことを知らないから、母が何をいっているのか判らなかった。
「大丈夫なら良いのよ!」「うん、大丈夫だよ」

偉い人たちがにわかに慌ただしくなっていた。
「誰か日比谷線使っているヤツ知ってるか!」「霞ヶ関利用者はっ!」何を言っているんだと思った。
その声と前後して社食のテレビがこのニュースを伝えた。
何度と無く繰り返し流されたあの映像。
私の同期がまさにあのサリンをまかれた日比谷線の電車に乗り込んでいた。車両は違っていたようだったが、当然その日はそのまま病院へ連れていかれた。
幸い、大したことはなかったらしく(被害にあった方々には失礼な表現になるが)今でも元気で暮らしていて時々連絡を取ったりしている。

さすがに、遠回りになるがこの日ばかりは違う路線で帰った。それでも、緊張してキョロキョロ…落ち着かなかった。

【普通に生活していても犯罪には巻き込まれる】
本当にそうだと思う。
いつ何時何が起こるか判らない。

私も忘れずに、いたい。
from. 言の葉 | 2005/03/20 21:22 |
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