卑弥呼さんに訊いてみないとネ。
NHK総合
その時歴史が動いた』−歴史の選択 邪馬台国はどこか 〜近畿説vs九州説〜

古代史をかじると、やっぱりこのテーマには惹かれる。
満智子先生の『天上の虹(20巻)』でも今まさに歴史書編纂中で、責任者の忍壁皇子(おさかべのみこ)が、卑弥呼の存在を立証できなくて苦しんでいるところだ。
まあこちらはマンガ(フィクション)のうえのことだが、もしかしたらほんとに『古事記』を纏めた人々も、卑弥呼及び邪馬台国については色々と議論して、資料をあさりまくったかもしれない。

あ。話の筋が逸れてしまった(いつものこと)。

だから邪馬台国が、九州にあったか、はたまた近畿地方にあったのか、という論争はずっと続いていて、しかも両陣営に有利(?)な発掘もあったりするから、ますます議論は白熱するわけだ。
10年近く前、このテーマでの公開討論会が開かれたときも見に行ったけど、両者一歩も譲らず、みたいな感じで面白かった。

でもそのとき、両方の主張を聞いていてわたしはおもった。
なんでどちらかいっぽうに決めないといけないんだろう? と。
こうなったらおもいきって、
【邪馬台国は九州から近畿を股にかけた大きな勢力を誇っていた】
という、合併説、なものではイカンのだろうか? と。

論点の主なところは、女王卑弥呼が九州に居たか近畿に居たか、なのだがそんなん、
「移動した」
でいいではないか。
吉野ヶ里も纏向も、両方ともに卑弥呼が居た、と考えればいいのだ。
というか、そもそも卑弥呼は人名ではなく役職名みたいなもんで、世襲(襲名)制を敷いていたと考えれば、居住地を移動しても不思議ではないし、へたすりゃ主要なムラにそれぞれ【卑弥呼】が居たかもしんないわけで、そうなると、やれ九州だ、近畿だと限定する必要もなくなるのでは?
そう考えるようになった。

かなり乱暴だし、いい加減なんだが、邪馬台国の勢力範囲が大きかった、というのはあり得ないことではない、とおもうのだ。
藤原京だって、近年の発掘で今まで考えられていた面積よりもずっと広大な都であったことがわかったくらいだし。
古代史はまだまだ
「絶対」
と言い切れる事項が少ない分野だから、邪馬台国にも近未来、すんごい発掘! があって、今までの概念が根底から覆るかもしんない。

それはそれで、面白いぞ、とおもう。


ああもう。
古代史のこと考えてると、ほんと、タイムマシンにお願い、と言いたくなるね。
大化の改新も見たいけど、卑弥呼にも逢いたい。


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Comment








>マダム様
そうですね。
もとは『魏志倭人伝』の記述だけが頼り、なんですよね。
そのへんも、この国の古代史のネックですよね。
自国の古い書物が見当たらないから、それにすがるしかないわけで。

どこかに『魏志〜』と同年代の書物が眠っていないかなあ。
そして発見されないかなあ。
そしたら凄い! のに。

マダムさんは有馬皇子のファンですか?
わたしは同時代なら額田女王が好きです。
どちらも名歌を残した歌人ですね。
from. 夏葉 | 2007/03/18 19:16 |
古代史は考古学と違って、物的証拠に拠っているものではないので、解釈の違いで色々な説がでるんですよね。
邪馬台国だって、『魏志倭人伝』のたった1〜2行を巡っての論争ですものね。
邪馬台国は単なる地方都市、というか全国にいくつがあった【国】のひとつで、全国制覇をしていたわけではないので、たぶん面積的には広くはなかったのではないかと、私は思います。卑弥呼は私のイメージではシャーマン=老婆(笑)

私は有馬皇子に逢いたい(はぁ〜と!)
from. マダム | 2007/03/17 22:50 |
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